雑感

 私が水彩画を描き始めたのは、毎日片道2時間の通勤がつらくなって常勤を止め、非常勤の顧問をお引き受けした2005年のことです。それを機会に、自分の住んでいる地域に知り合いが殆どいない情況を解消すべく、地元海老名市の高齢者向けの教養講座、スポーツ教室の誘いに応募し、参加しました。そのうちで、今も続けているのが、水彩画教室のOB会です。おかげで地元に大勢のお絵かき仲間ができました。

 対象が風景であっても静物であっても、絵画というのは、三次元に見えているものを二次元の紙の上に描きます。したがって、紙に描いた平面的事物に奥行き感・立体感をもたせるために、「錯視」を利用した様々な工夫が必要となるわけです。奥行き知覚を成り立たせる手がかりには、a) 平行線は遠くにいくと収束する (線遠近法)、b) 遠ざかるにつれて「きめ」が細かくなる(きめの勾配)、c) 遠くの対象は、ぼけて見える、また色が薄く見える(空気遠近法)などがあります。また立体感は、d) 対象に当たる光に応じた陰影によってもたらされますし、e) 色の効果(進出色、後退色の組み合わせ)でも表されます。

 図1(a)は、「線遠近法」と「きめの勾配」によって奥行き感を出すよく知られた例で、遠くへ延びる線路と枕木の構図です。A地点が手前でB地点が奥というふうに見えますね。(b)はどうでしょう?「きめの勾配」を除いて横線の間隔を等しくしました。これでは奥行き感はなくなり、A地点に立てられた傾いた支柱に等間隔の踏板が置かれた「造園用三脚のはしご」のように見えます。このように、人は眼球の網膜に映った二次元像を、脳で経験に照らして三次元再構成をして、判断をくだしているのです。

 次に「立体感」について考えてみましょう。ここで取り上げるのはクレーター錯視というものです。これは、絵画を描く場合だけでなく、材料科学の研究者が顕微鏡を使って材料表面を観察し、それをプレゼンテーションするときの注意事項にもつながります。
 図2(a)には、4つの円形が描かれています。そして上列の二つ(a, b)には下方に影を、下列の二つ(c, d)には上方に影を付けました。するとa, bは凸状に、c, dは凹状に見えます。ところで、この図形を上下逆にして見ますと、a, bが凹状に、c, dが凸状に見えるではありませんか。これが、いわゆるクレーター錯視と呼ばれるものです。

 さて、実際に材料の表面を顕微鏡観察して、図2のa, bのように見えたとします。本当は凸でしょうか、凹でしょうか。注意深い観察者は、焦点位置を上下にずらして、凸か凹かを判断するでしょう。それでも心配なときは、表面粗さ計を用いてプロファイルを測定します。その結果、図2(b)のような断面形状が得られたとします。なんだ、実際は「窪み(凹)」だったのか!ということになります。この場合は、プレゼンテーション用の図形としては、画像a, bは上下逆にして示さなければなりません。このままだと、人は凸と見てしまうからです。 

 実際にこんなことが起こるのかと思う方がいらっしゃるかもしれないので、以下に私の経験したことを述べたいと思います。結晶工学の分野では、単結晶材料の結晶性の良否を簡便に判定するために、化学エッチング法が使われます。通常は、転位の近傍のひずみ領域でエッチング速度が速くなって、ピット(pit, 窪み)が形成されるので、ピットの数を数えて転位密度を求めます。かつてシリコンの結晶欠陥制御法の研究をしていたとき、シリコンを熱酸化するときに生じるフランク型の転位ループ(熱酸化積層欠陥とも呼ばれていた)を観察対象としたことがあります。

 エッチング後にこの結晶欠陥を光学顕微鏡で観察すると、積層欠陥部分が線状、その端部2個所に小さな円形の転位像(イメージ)が見られました。当初は、常識的にピット(窪み)だと思っていたのですが、注意深く観察すると、「どうもこれは違うぞ、出っ張っている。ヒロック(hillock, 突起)だ」ということが分かってきました。図3に走査電子顕微鏡(SEM)像を示します。二つのヒロックが転位部分で、上側が明るく、凸に見えるでしょう。ところで、この図を上下逆に表示したら、凹に見えます。図2 (a)に示した錯視の実例です。

 こういったクレーター錯視は、山や谷が示された地形図上でも起こります。上下逆にすると、山の部分が窪んで見えたりします。当然のことですが、材料表面の形状を観察する場合や、樟トポグラフィで格子面の湾曲を観測する場合にも起こりうることです。プレゼンテーションするとき、表示には注意が必要です。

 最後に筆者からのひとこと:「イメージングを扱う研究分野では、注意深く形状の凹凸や湾曲の向きを確認し、誤解を与えないように正しく表示しましょう」 以上です。

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