随想

光陰矢の如しですが、数十年前の研究上の忘れがたい出来事を書こうと思います。


1983年3月22日、ロスアンゼルス市内のホテルで開催された米国物理学会でのこと。150名程度収容の会議室に倍以上の聴衆が詰めかけ、床に座り込む人も。私のお目当ては、針先で原子をなぞったと主張するDr. H.Rohrer(共同発表者はDr. G.Binnig、IBM Zurich
Res. Lab)の発表です。私は、前年から自由電子レーザの研究で米国東部に滞在しており学会に参加する機会を得たのです。シリコン(111)表面に現れる7×7再構成構造を実空間、原子レベルで観察した結果を見せられ大変驚き、ショックを受けました。会場からどよめきが起き、そして大きな拍手。鋭く尖った金属の針先でシリコン原子の並び方を調べるために、原子2〜3個分ほど離した状態で針先に流れるトンネル電流を一定に保ちつつシリコン表面をなぞった訳です。これにより所謂「走査型トンネル顕微鏡」の性能と信頼性が確立し、二人は1986年度のノーベル物理学賞を受賞しました。実は、私は前々年まで、同じように尖った金属の針先から沢山の電子を引っ張り出す高輝度電子源の研究をしており、針内部の電子エネルギー分布を調べていました。しかし、私がDr. Rohrer達の実験結果に驚いた理由は別にあったのです。それは、さらに10年程遡った頃のことです。

大学正門前を路面電車の終電が通り過ぎたころ、K先輩はいつも実験を始めたそうです。
“そうです”と言うのは、私がH教授の研究室に配属され、K先輩が行っている実験を知った時と期を一にして路面電車が廃止されたからです。
七分目ほど水が入った一斗樽の大きさの金属容器が正方形の四つの角の位置に置かれ、各金属容器には一回り小さい容器(浮き)が浮び、四つの浮きが支える大きな枠の真ん中に真空容器が乗っかっていました(図参照)。要するに手作りの除振装置で、真空容器の中には平らな金属板が水平に置かれ、板の表面スレスレに金属(タングステン)の針が石英の糸で吊るされていました。一体何をするのかな?板に針をそっと接触させ、糸を極弱い力(10-8ニュートンのオーダ)でそっと引っ張って、針が板から離れるのに必要な力を手作りのネジレ秤(マイクロバランス)で測っていたのです。K先輩の実験は摩擦現象を支配する真実接触面(二枚の板を擦った時、摩擦は見掛けの接触面全面で生じるのではなく、原子(分子)間の力が直接作用する凸と凸の接触部分で生じるという考えに基づいた接触面)における原子間の力を測るために、二枚の板のうち一枚を鋭く尖った針(Dr. Rohrer達が使った針と同程度に尖った針)に代えて測定するという新規な着想に基づくものでした。外部から僅かな振動が伝わっても針が板面から離れるので浮きを使って除振を施し、それでも昼間は路面電車の振動で離れてしまうので終電後に実験をしていたと言う訳です。K先輩の話しを聞き、装置を見ながら、私はそれこそ針先で紙に開けた小さな穴から向こう側にパッと広がる異次元の世界を見せられた思いでした。着想とはどのレベルまで考えを掘り下げて得られるものか、それを実証するためには何をどれだけ準備するのか、そしてある意味過酷な試練をどのようにクリアして結果に到達するのか、私にとってはそういったことが理屈でなく感覚的に飲み込めた実物教育でした。


勿論、これらすべてのあり方は、研究を着想し指導されたH先生の流儀そのものでもありました。この実験は成功し、その結果はK先輩とH先生の共著で1973年にNatureに掲載され、K先輩は英国のキャベンデッシュ研究所からの招聘もあったと聞きました。私がDr. Rohrer達の発表に驚いたのは、皆様もお分かりの様に、K先輩の実験をイメージング(画像化)の観点から工夫すればDr. Rohrer達と同様の実験が可能であったからです。では、彼等の実験を知ったK先輩はどう思われたのでしょうか?


一度聞いてみたかったのですが残念ながら故人になられたためもはや聞く術はありません・・・。でも、確かにK先輩は、針の先ほどの小さな世界にある真実を摑まえたのです。ところで、今や「走査型トンネル顕微鏡」を始めとするさまざまなタイプの「走査型プローブ顕微鏡(鋭く尖った針で原子分子をなぞり二・三次元像等を得る装置)」が開発・製品化され、研究機関によっては複数台備わっている所も少なくありません。


ちなみに、K先輩の論文がNatureに載ったころ、現在、筑波にある放射光施設Photon Factoryの構想が生まれ、Dr.Rohrer達が走査型トンネル顕微鏡を発明した年に放射光の取り出しに成功しています。いずれの分野も着想からその実用化、普及にいたる早さには目を見張るばかりですね。

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